5月10日
リトル・リチャードが亡くなった。ロックンロールの祖のなかでは最もすきなミュージシャンだ。映像ではあったけれど、ピアノを弾き歌う姿をはじめてみたときは衝撃を受けた。あまりにも格好よかったから。結局、実際にみることは叶わなかった。
ミュージシャンの訃報が飛び込んでくると、いまはどうしても新型ウイルスが原因か、とまず最初に頭に浮かび、気持ちの落ち込みに追い討ちをかけられてしまい、つらい。
夕飯には天ぷらをした。母親の手伝い以外で作ったことがなく、台所でワイワイと騒ぎながらの調理になり愉快だった。ふだんやらないことをやる楽しさ、時間がある、とはこういうことだなと思う。
5月7日
出勤日。気がかりなことがあり早めに家を出たので電車はすいているかと思いきや、これまでになく混んでいて、自分もそのなかのひとりのくせに憂鬱になった。
早めに上がれたので、東京駅の売店でシウマイ弁当を買えた。お弁当のなかでは一番好きでひとりで工場見学にも行ったこともある。
東京駅は見事にガラガラだった。構内を見回しながら、この感覚は何かに似ていると思ったら、震災後に初めて帰省したときに訪れた仙台の沿岸部を見たときと似ているのだ。何も無くなっていてこわいという感覚。
仕事に行くとくたくたになってソファで寝てしまい、風呂に入れと起こされるのは相変わらずで、こんな状態で、以前のように戻れるのか不安になる。
5月5日
ゆっくりめに起床。雨かと思いきや、まずまずの天気だ。
家人とテレビをみながら昼食をとる。小説家と暮らすねこを紹介する番組で彼女が書いた一編の小説が朗読されていた。『任務十八年』というタイトルで、ああ、これはまずいなと思いながら観ていたら、案の定、涙がとまらない。ねこはニンゲンをちょっとだけ善人にするという任務を帯びて、それぞれ担当のニンゲンのもとへやってきて、任務終了とともに帰っていくという内容。ニンゲンなんてちょっとアピールすればすぐにねこを連れ帰るから、担当の家に行くなんて簡単なもの、というくだりで、先代ねことの出会いを思い出した。
先代ねこは、わたしの顔を見るなりケージにぴょんととびついて、大きな口を開けてにゃあーとないたので連れて帰ってきて、それからずっと一緒だった。18年と半分いてくれたということは、わたしがそこそこ格好のつくニンゲンになるまでそんなに年数がかかってしまったということになる。長くなっちゃって悪かったね、のえちゃん。
我が家にはいま二代目ねこがいる。わたしがまだまだ至らぬので、引き続き任務を仰せつかったねこがやってきたのであれば、恥ずかしいやら申し訳ないやらで先代に顔が向けられないが、たぶん、いまのこは家人の担当なのだろう。
5月4日
太った。油断していたらほんとうに太ったので、昼ごはんは野菜を中心にあっさりすませるも満足度が低すぎる。胃が大きくなっているだけでなく、日頃、酒の肴になるようなものを食べ過ぎているのだ。
夕方からまたまたホットプレートを出してきて、鉄板焼きふうのものを始めた。この自粛期間を終えたあとも、これだけ使うかどうか。いや、意外と使うかな。
ねこは近頃、よく一緒にテレビをみるようになった。人間ふたりがずっと家にいる生活にすっかり慣れてしまったようで、少し心配している。
わたしもこの日々に慣れた。読むつもりでそのままにしていた本をじっくり読めたり、配信で映画を観たり、それなりに楽しいこともある。しかし、早く普通の生活に戻りたい、いつになったら、という気持ちが澱のようにこころに沈んだままだ。